昭和50年07月26日 朝の御理解



 御理解 第45節
 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振り上げたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取はずすぞ。」

 私が信者時代、信者時代と言うても、北京から引き揚げてから、この方の事ですけれども。だんだん私の話しを聞いて下さる方達が、ひじょうに感心を寄せて下さる様になった。あっちこっちの教会からも親教会ですね、いわゆる三井教会に、何時いつ会合があるから、あなたのところの大坪さんを一日貸て頂けんだろうかと言った様な、ご相談を受ける様になった。御説教があるとたとえば私のことが話のテーマになったりする様な事が、だんだんある様になって来た。
 お話に参りますと言うなら信者である私に対して、大坪先生大坪先生と言う人がだんだん出来て来た。もう私はそういう時に、非常にめいわくを感じたですね。大坪先生と言われて先生でもなかつに、大坪先生と言われるのがめいわくであった。それはやっぱその時分に、例えば甘木の平田さん辺りの事を、皆が平田先生平田先生とこう言うた。それを一部ではあゝいう事を言うから、平田が頭が高くなると言った様な風評があったし、私自身もそんな思いを致しました。
 私はだから人間心ですけれども、そんなに大坪先生大坪先生とこう言われたら、困ると感じたからでございましょうね。段々本格的に人が助かって、私がもう門外不出よそへ出られない。お商売も愈々駄目になって、当時はもう椛目に帰っておりましたけれども、どこどこに商売の用が残っておったり致しますと、それをお伺いをすると、今日は出るなと神様から頂く。そすとその日はずっと、次から次と私の話しを聞きに来る人達が多くなった。成るほどと思わせて頂く様な事でした。
 ある秋の取り入れが済んだ後ですから、もう全然外へ出ませんでした。神様から落ち穂拾いと言う事を頂いた。落ち穂拾いというのは、取り入れの終わった後に、稲穂が落ちている、それを拾ってまわると言う事です。所がその落ち穂拾いには少しもう遅い、根株切りがあったり、田を耕いてある所もボチボチあると言う様な時でしたから、こういう時に、落ち穂があるじゃろうかと、私は思うたけれども、田圃に出させて頂いた。所があるわあるわまたたく間に両方の手に握られん位に頂いたんです。
 あの時分から私は目の力と言うものを頂いてましたですね。例えば福岡から久留米まで帰る電車の中で、あの時分は今はありますかね、光というタバコがありましたよ。その時分光というタバコを電車の中で、まあ神様が退屈しのぎと言うか、稽古さして下さると言うのか、今日は光を探そうと神様は言って下さった。光を探そうとはどう言う事だろうかと思うた所が、そのタバコの光の殻がね、西鉄の構内にありますと、もうそこに落ちとる事、落ちトルコとバサラカです。
 それから電車の中に乗りますと、電車の中にもまた落ちとるんです。どうしてこんなに光ばっかり落ちとるじゃろうかと、神様がその働きを止めなさると全然ないです。ですから神様がこの目に力を下さるのですね。普通で気が付かん所で、線路と線路の間に挟まって、ちょこっとばっかりしか出とらんとでん何でん、あそこにも光がある。ここにもあると言う様に、私はそれを今日改めて感じさせて頂いたが。ほんにあの時分に只目に力を下さると言う事だけだったけれども。
 あれは落ち穂拾いとか光を探すと言う事は、矢張り御神意がもっと深いものがあったんだなぁと言う事を、今日私は思うんです。光を探そうと勿論その目に力を下さる、自分でも不思議な位。もう例えば田を梳いた後苗株を切った後なんかには、拾い上げるだけ拾い上げてあるから、大体落ち穂はない筈です。けれども皆の拾い残しの多い事に驚く位にあったです。光でもそうです線路の下にこうやって、落ちて挟まってる様な奴でん、普通では分からんごたるとに、ちょこっとばかり出ているからようと見ると。
 矢張り赤い箱があるのです。私が毎日こうやって、教典を開かせて頂くのも私のこれは目の力です。今日は何節をお話しようてんなんてん思うた事がないです。はぐらせて頂いて四十五節なら四十五節のところにぴたっと、私の目が行く所を頂くのです。そこに私の昨日一日のあり方とか、また御神前でお知らせを頂いた事やら、それを色々繋ぎ合わせて毎朝の御理解なんです。汽車の中でですね、例えば汽車の中なんかバスの中やらで、お伺いする方があります。
 そういう時には雑音やら何やらで、中々心が纏まりませんです。そういう時には例えば私が週刊誌なら週刊誌を読んでおる、新聞なら新聞を読んでおる。その新聞の沢山の記事の中から頂くです。答えがあるですそこへ。昨日も申しましたマッチのね、昨日私はあのお話しをさせて頂いたんですけれども、昨日ここにね花圭さんのお届けがあっとったんです。花圭さんとは今度ここの花の御用をされた方なんです。
 いつも夜中に参って来なさるです。そしていつもお初穂をそこに置いておられるから、もう夜中に参って来て帰っとられるとばっかり思うとったんです。所が本当に今日の御理解は自分の事だった訳です。今日の御理解を頂いて、改めてその事を思いました。本当にようも主人があそこまでおかげを頂いて、今度合楽の金光様の今度の事を御注文頂いたと言う事は、非常に主人が喜んでもうそれこそ大体150万位かゝるそうです。それを30万位でしてありますからね。
 やっぱ花ちゃそんなに儲かるもんでしょうたいね。技術が要りますからね。それも特別あちらは東京で修行された方だそうですから、決して奥さんにも花は入れさしなさらんです。一晩中助手には使うけれども、自分が一人でされましたんですよ。そういう方が例えば、一ヶ月なら一ヶ月前にあの様な問題が起きて、あの様なおかげを頂いて生き生きとして、本当に金光様ちゃ有難いと言う所に、母のお国替えであり告別式であり、その御用を買って出られる様な思いでおかげを頂かれたんです。
 だから本当に有難いまあ余談になりますけれども。昨日はだからあの話を御本人が聞いて居られた。聞いてまた改めて本当に有難いと言うて、昨日お礼をして帰られましたがね。それなんかでもここに花圭と言うお初穂が置いてあった。今日はお話は昨日の御理解から、どこを話そうかと思うたら花圭ここに目が来るんです。今日は花圭の事を話せと。だから昨日花圭の話をしたんです。
 と言う様にですねもう実に私は本当に、人間には神の性と言うものが備わっておると言うかね、段々例えば失せ物なんかの時なんかでも、私は神様へのお願いをするとフッと頂くんです。と言う様にその目の力と言うね、普通ご心眼を頂くと言う、御心眼と言う事は意味が大変深いですね。これは本当な事が分ると言う事が、心眼を開くと言う事です。例えば病気なら病気、それを難儀とこう皆が言うておりますけれども、決してそれは、難儀じゃないと分かる時に、心を開いた人が分かる訳です。
 もう一つ御心眼と皆が言うとるのは、あれは一つの霊眼です。はっきり心の眼にしかも最近はカラーで頂く方がありますね。いろんな物をそれを皆さんは御心眼、御心眼とこう言う訳です。だからあれは本当は霊眼と言った方が本当でしょう。かと言うてはっきりと色んなものを、この肉眼で見る事も出来るです。同時に私は今申します様な、今日でも四十四節、四十五節、四十六節が、ここを開く時にもその事で、ここん所に線を引く様に頂きますから、そこをいつも開くのです。
 そしてこの三つの御理解の中のどこを頂こうかと言う時に、今日は四十五節の所に、だからこれは私もまた今までかって聞いた事がないです。お知らせとを頂く御心眼を頂くとか御神示ね、神の声を聞くとかと言う様な事は、随分昔のお徳を受けた先生方の事は聞いたけれども。そういうものは聞いた事がなかった、今までかって所が私の場合は眼に頂く、だからこれは一つの眼力と言った方が良いのじゃないか。眼の力是は私はそげん思うんです。だから同じ御心眼と言うてもそれは色々ありますけれども。
 まぁ余談になりましたが今日もです。私は机の上に昨夜新聞とか手紙が来ておるとを置いてある、一番上にこの熊本の野田さんという方から、暑中見舞いが来とるこれを頂いたんです。ところが是にどういうふうに書いてあるかと言うと、大坪大先生いわゆる大先生と書いてあるんです。これを頂くんです。そしていわゆる大坪大先生と、これば読んだ時にひやっとしたです。
 だから神様がその事を話せと言うのが、今日の四十五節です。三宝様は実る程かがむ。人間も実る程かがんで行く行き方を身につけて行かねばいけません。例えば私が信者時代に先生と言われるのは迷惑を感じた。皆が段々私の事を親先生親先生と。言うなら次々と修行する方達が出来て、結局私が師匠と言う事になり、親と言う事になるから親先生と言う。親先生と言うからご信者さん一般も、みんな私の事をただ大坪先生と言う人はなくなった、みんな親先生親先生と。
 だから親先生と言われる事に、ハッと思う様な時代があったが、この頃は親先生と言われても当たり前のごとなってから、大坪先生とどん言われるなら、何か妙な気色のするごたる感じがする。これは然し怖い事だなと自分で今日改めて思いました。そして特別の尊称とでも申しましょうか、大先生とかおゝ先生と言われたら、ヒヤッとするものを感ずる訳です。私はこれは本当に果して親先生だけの値打ちがあるかという様なものを、言うなら実が入れば入る程親先生と言われても。
 それこそハッとする程しのものが感じれる様なおかげを頂かなけばいけないな。そして成程皆から大先生とも言われる様な、おかげも頂かなきゃならんけれどもです。例えばここらあたりで、大先生と言われた方はまぁ小倉、それから福岡甘木久留米あたり位じゃないでしょうかね。甘木の大先生とこう申し上げる。久留米の大先生または大先生とこう。ですから、あれは一つの神格ですからね。金光大神様の教祖の御時代にも、実際の神格を、何々明神とか何々大権現とか、金光大神とかと言うように、一つの尊称であり御神格。自分の心の中に頂く一つの神の位である。ここでも私は思うのですけども先生でもないのに、先生と言われる人達が何人もあります。これは先生がたあるからいつの間にか、誰かが先生と言うごとなったつです。
 例えば昨日研修会で文男先生が来とりましたが、いわゆる資格も何も持たんのです。例えば、あの人のお話しを聞かして貰いよってからです、確かに先生がたあるなと思いますもん。人がこの話を聞くなら助かる筈だと思いますもん。そこで文男先生と、皆がこう言うわけです。からと言うて文男先生自身が、俺がもう先生がたの値打ちがあると言う風に感じられる様になったら、やはりこれは人から先生と言われる様になるととこう仰る。頭を下げる事を忘れる様になったら。
 返っておかげを受けた事が、おかげを落すまた大怪我の元になる訳です。言われる様にもまたならなければならん。私も思うです本当に親先生と。これはまぁだ大先生のおゝ先生と言われる資格はないなと。親先生と言われると何か気分が良い。ただ大坪さんとか大坪先生とか言われると、見下げられたごたる気がする。これはまぁだ親先生がたの値打ちがない証拠だと改めて思う。そして何十年前に光を探さして頂いたり、落ち穂拾いをさせて頂いた時の事を、改めて思わせて頂いてです。
 結局心に光がない証拠そこに落ち穂と言うても、実が稔っておれば矢張り頭を下げる。落ち穂の様な心の状態が実って行っておるかどうかと。もう厳しく自分自身の反省をして行かなきゃなりません。これは先生と言うだけじゃありません。皆さんが大将と言われる。又は社長と呼ばれるその時に、社長と呼ばれる事に気を良くしたり、大将と言われる事を本当に大将になったり。
 言うならば頭を下げる事を忘れる様な事では、信心の実が上がっていないと言う事を、改めて思わなければいけません。今日はただ世に三宝様踏むな三宝様踏むと目がつぶれると言う。三宝様は稔る程かがむ稔る程かがむと言う所だけに、大体焦点を置いて聞いて頂いたんです。私共の婆達が言っておりました畳の上に落ちとる御飯粒でも、それを踏み付けると目がつぶれるとかね。足が額口に付くとかという風に言ってました。
 ですから本当に食物を私が大事にさして頂くのは、そういう時分から習慣付けられております。あゝ汚か黴菌の付いとる。そげなもん食べちゃでけんと言うて、ポンとやって捨てる様な事はしなかった。そういう押し頂く心の上に、例え黴菌が付いておっても、黴菌が黴菌にならないおかげが受けられるのが信心です。押し頂く心その押し頂く心がです、私は、いわゆる稔れば稔る程かがんで行く稲穂の心であり、信心の実が本当に入っている時だという風に思います。
 私が今日大坪大先生と言う葉書を、今、ここの前で見せて頂いた時にです。何かハッとするものを感じた。はぁ俺も大先生と言われる様になったと言うものではなくてです。それこそ、親先生と言われた時に、ヒャッと言うものを感じておったけれども、最近はその親先生が慣れっ子になってしまって、当たり前の様になって行きよる。そして大坪先生と言われると、何か自分を軽く見られた様な思いが、心の内容に少しでもあるとするならば、これは愈々反省さして頂いて。
 親先生がたもないのに親先生と、皆さんが呼んで下さると言う事に愈々頭を下げよ、愈々地を低うせよと神様から言われておる様な、思いに返らなければいけないと言う事を、これは私自身今日思わせて頂いた。それももう一つ飛び越えた大先生と呼ばれて、初めてそう言う事に気が付かせて頂いたが、今日この四十五節を頂きましたから、私はここん所をいつも地を低うして行かにゃならんと言う事は、いつも私はお試しを受けておると言う様な気持が大事ですね、信心さして頂く者は。
 今日はここの芯の所をどこに三宝様と言う所、それから大坪大先生と言う所にヒャッとしたものを感じた。そのヒャッとしたその事を話せと言う事だったんですから、話しましたが次に四十五節と言う事を頂きました。ここの四十五節と言う所。四十五節と言う事は、五と言う事は丁度中間と言う事ですね。四十と言う事はいつもと言う事です。だからいつも真中だと。いつも今中だという気持。いつも神様からいつも試されておると言う様な心の状態を持つと、失敗せんで済むと思いますね。
 これは御理解ではなくて、頂いた御理解を落さんで済むために、四十五節という心をいつも持っとけば良いと言う事です。本当に実のある人が、あの実意丁寧と言うのがね、御本部あたりでは、よくそういう信者さんやら、先生方に会ってもう本当に呉服屋の番頭さんの様に頭の低い人がありますもん。言葉遣いでん何でんもうそれこそ、丁寧な丁寧な言葉を使って、そしていっちょん助かっとらん。だからその人のとは言うならば、実意丁寧の化物だと私はいつも思うです。
 そりゃもう頭さえ下げときゃよかごと、丁寧な言葉さえ使えば良いといった様なね。言いながら心は言うなら上を向いておる。問題は実意丁寧神信心が出来たら、絶対おかげを頂かなんごとなっとるとですから。それに人が助からん先生が、ただ形の上だけで実意丁寧をしござるならですそれは可笑しな話です。今私が頂いた事ですけども、そこにある人がこう手をついて、お辞儀をしよる所を頂いたが、今思うんですけどもこれではいけないですね、信心さして頂く者は。
 なぜいかんかと言うと、畳の上に手の平かつくからです。人が足の裏で踏んだところですから。だからやはり心掛です神様を拝む時には、お茶のお点前を致します様に、言うならこう指を曲げて、こちらでつく様な心掛が要るです。その心掛は、けんきょにつながるのです。手が汚れたら、必ず手を洗うて、神様を拝むというのが普通でしょう。いつどこで拝まんなんじゃ分からんから、畳に手をついて、八の字につくと言った様な事は、神様の前ではいけない。
 言うならば、お茶の点前をする時の様にせにゃいけん。これは今頂いた事です、心眼で。これはだから、そういう謙虚につながる仕種一つでも、心掛けだと言う事です。油断をせんで済むおかげ。実が入って行けば入った程、分かれば分かったほど、頭が低うなって行きよるおかげを頂いておる印がです。そういう態度にでも、だんだん現われてくる様にならなければ、いけないと思うですね。
   どうぞ。